かわいいかどうかは関係ない

ペンギン哀史という記事を見ました。昔、南極に踏み込んだ連中は、ペンギンを食っていたんだそうです。

まぁ、そういうこともあったでしょう。目の前に食べられるものがあり、それを食べれば生きながらえられるとすれば、人はそれを食べるでしょう。現在は、条約で保護されていますし、食料なども十分に準備して南極へ入っていますから、食べることはないでしょうけれど

気になるのは

愛敬のあるペンギンたちがこんなに食べられていたとは、いささか驚いてしまう。好奇心の強さから、親し気に人に近づいてくるペンギンたちの警戒心のなさが、災いしたのだろう。今こんなことをしたら、世界中の動物愛護団体が騒ぎ出し、大変なことになるに違いない。
というくだりです。愛嬌があるから驚きなんでしょうか

人間は、どう取り繕ったって、他者の生命を奪わなければ生きていけないようになっています。それが、生態系における消費者の定めですから仕方ありません。だからこそ、僕らを支えてくれている命を大切に、無駄なく、感謝しながらいただいていくことこそが肝心ではないかと思います。

食べるか、食べないかの間に、愛嬌があるからとかないからとか、そういうことは関係ないのではないでしょうか?愛嬌があれば食べてはいけなくて、愛嬌のないものならいいのでしょうか?そんな不確かな感覚で、そんな線引きをしていいのでしょうか?

愛嬌のあるなしにかかわらず、僕らは、そうした命に支えられてここにあること、だからこそ、命を大切に思い、自分を、家族を、他人を、そして、生き物を(このあたりの順序付けはどうしても近いところからになっちゃいますね)大切にしなければならないのではないでしょうか?

子どもたちによる、残酷な事件が起きたりするたびに、命の大切さなどを付け焼刃に説いたりしていますが、こういう記事を見ると、大人の側の浅はかさにも少なからず原因があるんじゃないかと、そういう違和感のようなものを覚えてしまいます。