世の中のトレンドは電子化だ。電子化すると、文書は検索や再利用が容易になるし、何よりも保管に優れる。本を何百冊と所有したって、データならHDDのサイズ分
役所だって紙の書類の管理やスペースを省くことで効率化を計りたいのだろう。だから年金データだって電子化するし、戸籍だってそういう流れになっている。しかし、電子化とは何かを捨てねば為し得ないことのようだ。
消える死亡者名残してに「実現困難」法務省亡くした子の、存在した痕跡さえも消し去られてしまうのは、親としては耐えられないことだろう、法律上の意味はそこにないとしても。電子化することで、それ以前の存在は捨ててしまおうということだ。電子化は捨てないでは達成できないのだろうか?単に入力の手間だけの問題にしか見えないのだが、システムの改変が必要であるかのような説明もされている。戸籍の電子化に伴い、電子化前に亡くなった家族の名前は新戸籍では消える。病死した子供の親たちが「生きた証し。名前を残して」と希望者には記載を残すよう求めた要請に、法務省が「電子化前の原戸籍には記載されている」などとして「実現は困難」と回答した。
さらに、記事の中の一文が別の捨てるものを暗示しているように見えた。
戸籍の電子化誰の主張なのかは知らないが、そうか、やはり横書きが見やすいという意見があるわけだ。電子化で手続きや処理が迅速になり、戸籍の保管スペースを小さくすることができる。従来の戸籍は縦書きだが、新戸籍は横書きで見やすい。11月1日現在、全国1969市区町村のうち、約7割の1387市区町村が電子化している。
このブログも、勿論、横書きだし、技術書の大半は横書きだが、国語の教科書も、作文も、小説も、縦書きで読んできたし、まだ縦書きの本の方がライトノベルでさえ大半だろう。縦書きの方が読みにくいというコンセンサスがあるなら、ライトノベルなんて真っ先にみな横書きになってしまいそうなものだが、そうはなっていないし、最近はPC系の雑誌や書籍にも縦書きのものがあったりもする。どちらが「読みやすい」なんていうのは、現時点ではまだ主観的な問題で、戸籍の電子化のメリットなんていうものに含めるべきものではないと思う。
一方で、最近は、「ケータイ小説」なんていうものまで登場し、人気を集めている。この間、何かの情報番組で、ケータイ小説の書籍化を取り上げていたが、インタビューされていた女の子の中に「横書きの方が読みやすいし。」なんて答えている子がいた。
将来、コンピュータやケータイの横書き画面に慣れ親しんだ世代が主役となる時代になれば、我々は縦書きって言う文化を失うのかもしれない。ヨーロッパでは、PCで表示できない文字を使わないなんてことを決めた国もある。我々だって、PCで表示できない漢字はもしかしたら、段々と捨てられていくのかもしれない。
システムを我々に適合させていくのではなく、我々をシステムに適合させる方がずっと楽なんだということを改めて思い知った。いや、Pilot1000に最初に触れたとき、Graffitiの認識率の高さ、速さに、Newtonやザウルスのような正攻法よりも、人間を端末の好むように合わせることの方が、ずっと効率がよいということは気づいていたけれど、それが、もしかしたら、我々が何かを捨てさせられることと同じだとは気づいていなかった。
さて、十年後、二十年後には我々は何を捨て、何が残っているだろう? そして、その時に、捨てた何かに値するような、何かを得ているのだろうか? なんてことを漠然と思った。
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