小学校でも英語が必修に

今、背後でついている日経CNBCが伝えたところによると、教育審議会外国語部会は、国際化社会において日本人の英語能力は充分ではないため、これを高めるべく、小学校高学年で英語を必修とするという答申をまとめたそうです。

英語を早くから教えることの是非についても取りざたされる中での決定ですが、ちょっと待ってよ、と思います。ほとんどの日本人は、中学校から始まって、高校までで6年。大学の教養課程までで+2年で、計8年もの間、英語教育を受けますが、それでもさっぱり話せません。その原因をしっかりと分析し、まず、中高での教育方法を改めてから、改めて、下へ伸ばすかどうかを考えるべきじゃないのかという気がします。

ボクは、外資系の企業に勤めていて、職場の半分はガイジンな上に、現在所属しているチームの9割はガイジンです。主なコミュニケーション手段は英語になるのですが、自慢じゃないですが、学校での英語の出来は、良くいって中の下、といったところでした。恐らく、高校時代の先生が、こんな職場で、こんな連中を相手にシゴトをしていると知ったら卒倒するんじゃないかというくらいにダメでしたが、とりあえず、英語のようなもので、彼らとコミュニケーションし、時には呑みに行ったりしていますが、何とかなっています。

こういう環境に放り込まれて思ったことは、学校英語の下らなさです。重箱の隅をつつくようなテストを繰り返し、その出来で、ダメの烙印を押していくわけで、その重箱の隅こそがちゃんとしていないと、英語が使えないかのような錯覚を起こさせられます。勿論、重箱の隅まで完璧に越したことはないのですが、そうじゃなくても意思の疎通は出来るし、会話は成り立つのです。冠詞が抜けたり時制が微妙だったりすると、多少困惑したり、違和感を覚えたりするかもしれませんが、まず、何より大切なのは、話すことなんですね。彼らの文化では「沈黙は金」ではなく、黙っている奴は存在すらないのと一緒なのです。

そして、何より、ぼくらは、自分たちの母国語ですら、完璧に精確に使えては居るわけではないのに、それでも、生きて、暮らして、話しているんです。「立ち振る舞い」なんてのを、堂々と広告に打っちゃえるくらいにダメでも、なんとかなっているのです。何故、外国語に母国語以上の精確さを求める必要があるのでしょうか……。

問題の一旦は教員にもあるでしょう。要するに、そういう重箱の隅でないと評価できないのでしょう。英語能力が欠如しているからなのか、会話能力や作文能力そのものをきちんと評価できないというのが、あるのでしょう。このあたりの整備から先にはじめないと、いつまでたっても、幼稚園から必修としても、多分、あまり英語が話せる日本人は増えないでしょう。

いや、ほとんどの日本人は、ボクと同程度には話せるんじゃないかと思います。ただ、重箱の隅のおかげで、正しくない英語を話すことを躊躇っているだけなんだと思います。まず、話してみること。その一歩を踏み出す助けとなるような、教育なら歓迎なのですが。